is not after death

全地に福音が伝えられ、これら全ての事が起こるまで、この世が滅びる事は無い。
最後の審判は死んでからでは無く、地球の全ての魂が、各々が持つ愛の度合いに基づいて裁かれる時が、やがて来ます。

幼子の様に素直で無ければ、誰でも天国には入れ無い。
地球は理想的なアセンションでは無く、天国へ入るにはイエスが預言する未曾有の大天災時に救助される必要が有ります。
10年先か?6ヶ月先か?明日か?僕が存在する今の時代に必ず成就する、その時がいつかはわかりません。
しかし、産みの苦しみは既に始まり、時は刻一刻と迫ります。
僕は決して預言をしに来た預言者ではありません。預言の時は終わりを迎え現実となる真実を伝えるのです。
救いを求めるならば宗教に対する無益な概念や信念に囚われず、素直にお読み下さい。
僕が説くことは理解が難しいことも多いかも知れませんが、それ以外に無益な時間や困難、お金を要求することは決してありません。
最後の審判で…
因果応報によりあなたの持つ愛の指数に基づき平等に裁かれます。

かつて無い、又、これからも無いような天災が起こる時、天に人の子の印を見て多くの者が信じなかった事を嘆き喚いて、人の子が御使と共に天の雲に乗り東から西から救いを得た選民が集められて来るのを見る。
まだ、全ての事は起きておらず、誰が最後の審判を死んでからや、旧イスラエル滅亡で終わった等と惑わすのでしょう?
イエスではありません。
義について
イエスといわれるエリヤが神の国の子なのは当前の事を信じたからといって、どれだけの義になるでしょう? 教義は全て、意訳であれイエスの言葉として、聖書にありますか? また、反していませんか? その時々の環境や状況など考慮せず、矛盾に疑問を持たず、僕の訂正を嘲笑うなら、イエスを陥れ殺した、サドカイ派やパリサイ派と言われた人々と何が違うのでしょうか?

人に見える様に祈るのでは無く隠れた所で祈りなさい。
やがて、祈りに祭壇や教会が必要無くなる時が来る。
心を落ち着け瞑想し、自身を内から鑑みて、御心に問いかける事は推奨します。しかし、決まった時間に決まった言葉で祈るだけなら時間の無駄と自己満足にしかなりません。祈る時だけ取り繕うのなら祈らない方が、その卑しい心を見られないだけまだましです。
何度も言いますが、神はあなたの思考全てを知っています。
福音

私の戒めを守りなさい。私の戒めとは神を愛し隣人を愛しなさい。
聖書を素直に読めばイエスは愛を強調しています。福音こそイエスの結んだ実であり、その実で見分けられる人なら僕の言う事が理解出来る筈です。

右の頬を打たれたら抗ってはいけません。むしろ、左の頬を向けなさい。
求める者にはそれ以上に分け与えなさい。
愛を学び説いているのも実践は難しいのもわかっています。しかし、どれだけの人が、まず心掛けるスタートをしているでしょうか?

偉くなりたいなら人々に仕え、低く在らなければならない。
自身を高ぶる者は低くされ、低くする者は高められる。
それでも刹那の瞬間偉ぶりたくて、その後の永遠を地獄で生きますか?
わかっていても、すぐ変われないのが人間です。後、何年あるのかわかりませんが…
救いへの
神を信じ無い者は自身も愛せません。自己中心的な自尊心は愛では無く、それでどうして隣人を愛せますか? 本当の意味で自身を愛すとは、神と隣人を愛して成す事で正に、三位一体と言えるでしょう。自身を愛すと神を愛すは同じと捉え隣人を愛すのが同じと成れば一体となります。
それが、

一緒にいる。
と言う事です。
自身の内から外へ高めるのが愛であり、やはり自身を見つめ悔い改める事から始まるのではないでしょうか?
それが、

自身の目から梁を取りなさい。
と言う事です。
神の分け御霊である魂で生きる理の世界で本来、心で感じる事が出来無い人はいません。理解しようとするかどうかだけです。救いを得るには、隣人を愛し愛を高めていく事は必須であり戒めは全てそれに尽きます。勝てば正義や、善とは攻撃を防御して戦う側等と言う人もいますが、知っていても実践は難しいのに、判断する基準を間違えてはいけません。
神は全て知り隠し事は不可能なのに、どうして欺けるでしょうか?もし、あなたが利他的に隣人を守る為嘘を吐けば、神はあなたの隣人を守る心も知ります。
律法だからと自己思考を放棄して愛無き理不尽が有れば、神から見放される以前の問題で、御心に反する行いを知られてはいても見られてはいません。

神は哀れみを好み生贄を好まない。
愛に繋がる真の律法では無い信念に何の価値があるでしょうか?
ただ一つの道
『宗教団体キリスト教に加入する』のと『神を信じ愛を育てる』では、どちらが重要でしょうか?
キリスト教徒であっても、

私を主よ主よと仰ぐだけで、神の御心を行なわない者は救われない。
キリスト教徒でなくても、

私を主とは言わずとも、神の御心を行う者が救われる
キリスト教徒を絶対視していませんし、全宗教の教義や個人を否定しません。 例えば、仏教は本来宗教では無い事を横に置き、仏陀の教えは愛を認識して学べば、愛を高める内容が多く学ぶべきです。
しかしながら、仏陀の教えに反する解釈や、含まれ無い事を教える宗派も存在します。
同様に、キリスト教でも思い違いし御心に反する解釈や、含まれ無い事を重視して重要な事を軽視し、本質的に捉えず、愛に反して固執し縛り付ける教派や教系があります。

私を無意味に「主よ、主よ」と仰ぐが、その心は御心にあらず人の教えを教えている。
これが、

あなた達は私を見なくなる。
と言う事です。

私に留まりなさい。
とは『入信する事』ではありません。イエスによって真っ直ぐに整えられた『戒めを守る事』です。

私によってしか救いが無い。
とは至極当然で、仏陀でさえ説いて無い事を、神もこの世の真実も知らない者が、何から何で何の為に救うと言うのですか? 旧約聖書にある滅びについての詳細と『唯一救いを得れる愛の本質的概念について』イエスが説きました。
それを知り信じると言いながら信仰、信教の自由を認めるとは救いを妨げ陥れる行為であり知って罪を犯させ散らす者です。

集める者は家族で、散らす者は敵でありサタンだ。
あくまでも尊重するのは個人の自由意思です。
罪について
イエスは警告していました。

偽預言者やメシアを騙る偽者に気を付けなさい。
しかし、預言者や救世主を自称する偽者、又は、創作に惑わされている人は非常に多いです。完璧な人はいませんが神は完璧で、神の御心であれば必ず理に適います。

私が来なければ罪にならなかった、しかし、私の言葉によって罪に定められた。
愛に繋がらない伝統や規律、法律、常識等の概念と物理的社会環境や情報統制などで縛り、思考と生きる時間の自由を奪う。全ての人の尊厳と意思を平等に尊重しない。(それで平和などあり得ません) 殺せと言われ殺し、死ねと言われ死ぬ。その様に人をロボット化するのが御心だと思いますか? それなら人では無くロボットを作れば良くて、どちらが容易いでしょうか?

良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。その実で見分けなさい。
と、聞いた事があるでしょうか?
しかし、真であれば僕と相違しないので、惑わされ無いようイエスからのち全ての預言者を否定します。 全てを一旦リセットし惑わされず、真実から目を背けないで下さい。日本人でメシアを騙る人もいますが、僕はマサヤでメシアと騙る時点で偽物です。
信じない事について
「愛の指数が高いと信じ無くても良くては?」と、言う人もいるかもしれません。しかし、本当に愛を理解して指数が高ければ信じて受け入れられます。

私を信じるとは戒めを守る事。
イエスの言葉を信じ戒めを守ら無いで、何を信じていると言えるのでしょう?

私を信じる者は私を遣わされた方をも信じる。
神を信じる者はイエスを信じ僕を信じます。僕を信じる者はイエスを信じ神を信じます。
狭き門

世は見ようともせず知ろうともせず知らないから認められない…
今までも心に従い何かと発信しましたが、見ても認めず、読み聞きしても悟らず、質問どころか重要な部分は無視して論点の外れる人ばかりでした。しかし、それは裁きの時迄ではありません。

数々の真理に導き誤りを認めさせ、やがて起こる事を明かす。
とあります。

知らずに犯す過ちと知って犯す過ちは罪の重さが違う。
あなたがそれを知っているなら僕を信じなければいけません。

見い出す者は稀である。
仮に、5億人救いを得ても約16人に1人です。少ないと思いますか?多いと思いますか?
裁きについて
救いの基準は個人の持つ愛の度合いです。愛は俗に言うオーラで表れ測れます。
神が地獄に落とすのでは無く、自身の思考と言動によって自ら地獄に落ちるのです。 わざわざ業火に放り込みません。全て神に聞き裁かれ救助され無いだけです。
自分達だけが救われると主張する偽善団体に愛は見えず、救われる事などあり得ません。

永遠の命に入る。
死人の中から復活させて蘇らせる。
天国では永遠の命と前世の記憶がイエスによって約束されています。
復活するのは前世の記憶

神の国へ入るには、誰でも新しく生まれ変わらなければならない
イエスが約束した様に、裁きの時に復活する前世の記憶によって、転生については嫌でも知る事となります。
また、イエス以前に仏陀が現実を方便で詳しく説いていて、決して幻想ではありません。
裁きの時は全ての地球人が前世の記憶を蘇らされてから裁かれるのです。
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