本当に神を信じていますか?
イエスを信じると言うユダヤ教徒及び、キリスト教徒の批判をしますが、もし、あなたが、イエスの言葉を大事にし、目を覚ましていようとする、真に敬虔な神の信徒ならば、素直に聞き理解出来るはずです。
この世の誰よりも正しい事を知っている、狂信度の低いキリスト教徒でさえ、僕の話は根本的な間違いを訂正する事から始まるのです。
それは仕方がない事で、間違いは間違いだから訂正します。

あなた達は私を見なくなる。
私を主よ、主よ、と仰ぐが、その心は御心を思わない。
とあっても、キリスト教徒は自分達へ向けて説く言葉だと認識したくありません。
イエスが言う私は誰で、その私を主と仰ぐのは一体誰達の事だと言うのでしょう?「元から見て無い人」に「見なくなった」と言いますか? 「見ていた人」が「見なくなる」ではないでしょうか?
もし、あなたが、あなたの家族や友達が0+1=3や1=800と答え、水はO2Hと答えても、人権と自由を尊重して間違いを認めると言うのなら、僕もあなたの訂正はしません。
他人の事はどうでも良い人の事は、神もどうでも良いからです。
理解してスタート地点なのに、洗脳を解くキッカケまで理解するのに時間もかかりそうで、愛の概要や精神的内面の成長した理想を知っていても、外面と違い、すぐ理想通りにはなれません。
見知らぬ人に右の頬を打たれたら、左の頬も向けられる人が何人いるでしょう?僕でも嫌です…笑
例え、この世の最後まで僕を知る事がなくても、神とイエスの言葉を信じて愛を理解し、教派の教義にも惑わされず、日々自らの出来る事で愛を育て実践し、決して自己満足せず、自身の及ばない隣人の状況や世界の情勢に心患う、慈悲深い敬虔な信徒に説くのではありません。
また、聞けない認めない悟らない人にも説いていません。
惑わされた救われるべき選民へ説くのです。
素直と鵜呑みは似て異なり、鵜呑みにせず、しっかり考えて理解して下さい。
全てを聞いても、理解し正しく判断出来ない人は、知らないのか?軽率で性急なのか?何れにしても神とイエスを侮り、不真実の何かに固執や執着する信仰、不信仰が洗脳された狂信だと自覚できず、現実の救いを放棄しています。
神の定めた未来とは自然の摂理が為す事です。
たまに聞く、神を信じるからこそ、神が破滅をもたらす事は無いと信じたい気持ちは理解します。しかし、神は愛で全ての自由を認める自然の摂理です。
現実を受け入れて救いを求めて下さい。
キリスト全教派共通事項
神とイエスを信じて聖書を大事にしていると言うのならば、イエスの福音を蔑ろにしてはいけないし、
旧約聖書は煩雑になり一つにまとめる必要性があったとは言え、預言者に在る真の「 The Lord 」の言葉を蔑ろにしてもいけません。
しかし、キリスト教の始祖であるイエス・キリストの言葉では無く、その後の、誰かの解釈を信仰しなければ、キリスト教徒では無い異端と言います。
イエスの説く、神と愛を理解する為の戒めや、滅びと救いの預言と福音に無い言葉を、それ以上の基本として大事にし、
逆に、イエスが「主である神よ父よ」と崇める言葉は無い事にして、姦淫の中で最も重い神を冒涜する罪を犯すのです。
三位一体
唯一の神だけが神で、それ以外に神はおらず、又、人の子と聞いても、人は人だと区別していません。
神と共にあるワンネスを、多神教と同じ様に神にして崇め、救いと無縁の解釈を強制的に信仰し、又、させる事が真に異端で異教徒なのに…キリスト教徒は当然の常識だと言い張ります。
薄々気付きながら、異端視される事を恐れて、公言しないだけの人も少なからずいると思うのですが…?
本当の常識とは普遍的であり、岩=岩、水=水、1=1 など… 人により、表現や科学的理解度が変わっても、本質は1つで同じ変わらない事実は真理であって、狂信的には決してなれない当然の常識と成ります。
特定の集団以外で普遍的に成れないのであれば、それは常識では無く今は知識とするべきです。

もう1人の助け主、その方が来て、知らないから無視され、見つける人は稀の狭き門だけど、イエスを証し、自らの考えでは無く、見て聞き知る真実を説き明かし、選民に誤りを認めさせ導く。
とあるのに、僕の事を現実ではなく幻想にしています。
あくまでも僕は、知る気が有れば誰でも知れる情報と、旧約聖書を裏付けにして、本質的に大事な事は福音書にあるイエスの言葉によって説くのだから、敬虔なキリスト教徒が素直に考えて理解出来ない訳がありません。
例え、僕が言い違えても、本質は何も変わらないのに、ミスに執着する意味があるでしょうか?
自分達は絶対正しいと思い込み、勘違いした解釈を信じ、心を悔い改め無くても既に救われた等と思い違いし、イエスの言葉に反して僕を侮り否定する事は、聖霊を侮る罪を背負う現実に目を背けるのです。
そして『エリヤを先に、2人の子を遣わす。北から道を1つにする子、東から神の名を呼ぶ子』や『私はあなた達の言う主である。しかし、真の主とは常に神の事である』とある The Lord の言葉を蔑ろにした解釈を大事にするのです。
2人の子は当然、Messiahを冠するのに《死=終わり》と思い込み《今に救いを求めて執着》したり《自分達だけが救われる事に固執》したりして、イエスをエリヤと認められず、ユダヤ教もキリスト教もMessiahを1人にして、蔑ろにするのです。
モーセの言葉を破り、既にイスラエルの子では無いユダヤ教徒がいくら儀式や祭りを守ったところで意味はありません。
そして、一分のキリスト教徒でさえ、無駄に聖書に命を求め固執して、僕から聞かずにパリサイ人と何が違うでしょう?
しかし、ここに神の慈悲があるのです。
にも関わらず、僕からイエスを通らなくて救われる事など無いのに、固執し執着する事を続けますか?
イエスは「あなた達が信じるならエリヤは既に来ているのです」と認めています。しかし、同一性を一切感じない人物にこじ付けて理解出来る事は無いのです。
福音書を読んで列王上でエリヤを知れば、素直な人なら同じ人物を感じると思います。
そして、人は生まれ変わるとはいえ、例え神の国の子であっても、決して殺しても良い神の許可など無く、唯一の神を知らしめ救いをもたらす為に罪を背負い、その贖いを理解するのです。
イエスの死を経て説いた福音で救いをもたらす事が罪を贖う事となるのに、救いを得ても無いのに自分達は既に救われたとする解釈が真に正しいのであれば、福音は何なのか?
今一度真剣に考えて下さい。
僕は、イエスの頃から現在までの、敬虔なキリスト教徒達による伝道の歴史を否定するのでは無いし、その時々の人々に合わせて解釈された、過去の変わらない事実に執着しても意味はありません。
宗教に縋る気持ちがわからない訳でも無く、僕自身、心が病んでいる時期に、新手のカルトに傾倒した経験があるから、わかる事もあります。
しかし、イエスはユダヤ教徒の言うMessiahの僕を預言しているにも関わらず《死=終わり》と思い込む《今に救いを求める執着》から、僕とイエスを区別せず混同し、死後の非現実的幻想や現実に幻想を重ねて救いを妄想します。
神の御名に僕のMとイエスことエリヤのEで「父と子と聖霊の御名によって Amen 」です。
音が言語で変わらず、アーメンはアーメンなのは、真実は一つしかない神の御名は普遍的だからです。
とは言え、音の問題は難しく、僕は英語の音の違いがまだ掴めないくらいですし、細かい音は気にしません。
発音が少し変なくらいは、神も笑って許してくれるでしょう。
音を区別しない日本語表記ではアンですが「私は在る」=「 I am 」で、音的にan なのか?amなのか?全て似て異なるのか?
感覚的にわかる事は、母音の始まりである《ア》の様な音と、子音で終わる《ン》の様な音。
Amen に込める心は「 I am in 」=「愛である神は私の心の中に在る」です。
それが、様々な意味に繋がる根源となります。
理解出来ない人は自分が、声を聞く預言者になったと想像してみて下さい。
神の代理で御心を伝える、あなた達の言う主である僕達が僕達の言葉によって説くのに、現代において当時の音がわかりもしない、ヘブライ語やアラム語に理解を求めて何の意味が有ると言うのでしょう?
個人の自由意思を尊重する以上に、認めてない事を認めると言う矛盾を語り、それが人を欺き偽証する嘘だと認識せず、神は全てを知ると言うのに、あなたはそれで本当に大丈夫ですか?
僕も使命に関連する事でさえ知らない事ばかりで間違いや失言もし、本質変わらずでも完璧ではありません。
しかし、どの教派も完璧では無く、一部のキリスト教系、その他あらゆる宗教のカルト信者が洗脳を解くのは自分次第です。
洗脳からの解脱を祈ります。
閉じられた目を解放して下さい
福音に無い事を伝統だからと重視する事がイエスを見ていない証拠と悟り横に置き、意訳と称し改竄した聖書や冊子では無く直訳に近い福音を素直に読んで下さい。
福音を正しく理解するには、その時代の社会環境と解釈や記憶違い、写本の過程や翻訳の相違も含め改ざんを考慮して俯瞰的に読む必要があります。とはいえ、人によっては聖書を読むのが難しい事を予想し要点はまとめるので、救いを得る事に集中して下さい。
神の御国と天の御国を知らないから区別できないのは仕方が無いのかも知れません。(その点マルコの福音書は、神の国と天の国、この時代と今の時代も?大方区別しています。)
人は指摘されると怒ります。もちろん、僕もです。思い止まり冷静になって下さい。

弟子が師を超える事は無い。
どうか素直に聞いて下さい。
僕はイエスに預言された通り、当然イエスの言葉を受けて説くのでキリスト教徒にはわかっても、今まで聖書を読まない人々にどれほど救いを広げられるのか懸念しています。
何故、僕は東で、それも極東の日本で産まれたのか少し考えて頂けませんか? 僕がキリスト教徒世界分布図を見て、どれだけアウェイを感じるか…笑
黙示録について
黙示録は僕が殺されたらあるかも?笑
ですが「何々の様な」と言い、その名が示す様に預言では無く暗示です。
又、それにより聖書及び福音の改ざんを阻止する必要性もありました。

自分より悪い7人の悪霊を連れ帰り更に酷くなった。
7人の悪霊も登場しています。惑わされないで下さい。
暗示として捉え読めば、正に、破滅へと向かうこの世の人々の在り方を示す様な内容です。
その有り様は警戒する為のものであって、目指すべき事では無いし、現実的にその崇拝者は何と言われているかご存知ですか?悪魔崇拝者と言われてます。
もし僕がこの事を言い表さなければヨハネの罪になっていたかも知れませんが、僕がハッキリと言いました。聞かない人の罪です。
この世の滅びは自然の摂理であって、まるで人為的に滅びる様なアルマゲドンはあり得ません。
1000年で地獄から解放されて、丁度その頃プロテスタントが起こり分裂したのだろうと思います。
だから、誰も神の国の下僕に成れません。そう在ろうとする心は敬服します。しかし、天国の仲間入りもまだの魂が、現界で肉体を持たず神に遣える神の国の聖霊に突然成れません。
まず、来たる世の人々に仕え、神の奴隷の様な脅迫観念に囚われず、自分を愛して自身の自由を認め、真の自由と幸せな人生を歩んで下さい。
その為に財産や欲望からシフトチェンジして心底救いを求める事を祈ります。
ヨハネについて
ヨハネは黙示録によって戒められ、先の3つ?4つの?福音書に相違する、都合良く足されたり省かれたであろう話を正しく書いたと思います。
それがなければ、僕を知る事はできず、僕の明かすイエスについても信じる事が出来なかったでしょう。
また、その後の聖書の改竄を防ぐ抑止力でもありました。
今どこで何をしているのやら…
聖書に固執する事について

救いを求めなさい。
これを例えると、
もしあなたが一流大学の卒業を本気で求めるならば、それに見合う勉強をしませんか?
お金持ちに成る秘訣が「お金を求めなさい」と聞けば、どの様に思考し行動しますか? そんな事を聞かずとも、少しでも多くのお金を求めて、論理、スキル、SNS等を時には学び努力して自身を高めませんか? それとも、ただ、お金が欲しいと思うだけですか? 何もしない人に何を思うでしょう?
お金なんかよりも遥かに大事な命の、永遠の幸せか永遠の地獄の瀬戸際で、天国に行きたいと思うだけで良い等と本気で思いますか?
聖書を重んじるのはわかります。旧約聖書は僕を含め確かに全ての証となりますが、今の時代、認識以上に何を求める事があると思うのですか?大人になっても幼児教育の中から学ぶ事もあるとは思います。
それよりも、イエスが一つにした大事な教え、福音を理解し神を愛して、愛を本当の意味で育てるのは聖書では無く、あなたが現実を生きる思考次第です。お金の事になると柔軟に成長しようとするのに、なぜ愛を育てる事において聖書に固執するのでしょう?
愛は神を信じて愛さなければ、育てる事は出来ない正に人生の根幹的基礎です。
確かに、愛はまず認める事から始まると思います。そして、隣人の為に自己犠牲もわかります。誰かの為に何かの為に無償で奉仕活動するのもわかります。
行動する事も確かに大事だとは思います。
しかし、それだけでは愛の理解が低いから、時には偽善になるのです。
人の言動を決めるのは、その人の思考=心の在り方で、外面では無く、内面です。
エゴイズムは愛が無いとわかるなら、欲望、羨望、願望、野望、固執、執着、期待などの自我を捨てる事が愛を育てる事もわかると思います。
根本的に、全ては神が創造している事を再認識して下さい。
そして【死=終わり】という概念を捨て、考えるだけ時間の無駄な死後の非現実的な世界を幻想せず、人生の意味は宗教では無くご自身が作る事を認識しなければいけません。
死んだら終わりと思うから、偽善を愛とか救いを死後の世界に求め、本当の愛を理解出来ないのです。また、イエスの言葉には無い、恋愛感情などを愛に含めて考えていて理解出来ることはありません。
愛は基本となる人生の指針であり、聖書は確かに大事です。
しかし、固執は盲信と気付いて、どうか学びの機会を自身から奪わないで下さい。
現在の地球では、現実的環境の問題で愛の成長に限界があるとはいえ、まずそこまで愛の度合いを高められる人は殆どいません。
正しく愛を理解し始めれば、自分は愛が高いと自惚れる事などないのです。
また、正しく真実を認識して狂信的になる事はありません。
信仰は決められた何かを実行する事では無く、心の底の問題です。
神は全てを知るのに、決まった儀式、決まった祈り、決まった断食、何か決められた事に固執する事は何の意味があるのか…?客観的な立場から見れば狂信です。
狂信者は自覚出来ないから狂信者です。
神も愛も正しく認識すれば狂信的にはなりません。
だから正しい愛は当然の感覚となり、それを理解と勘違いします。
狂信的になれないから、愛を説く言葉は繰り返さず、狂信的になれる意味の無い事を大事にして固執するのです。
Here for you, always let’s navigate this together.
世界の主要な西側欧米諸国に集中し、地球人口の約30%いる教徒全員が、もし、戒めを守り愛を理解し実践して世界は今と同じでしょうか?
キリスト教徒とされる人々の何割が愛高め救いを得るかでさえ懸念します。

大きい期待への失望は更に大きい。
キリスト教徒として、お金や利権を巡り争う事なんかよりも遥かに大事な事と認識し、視野を広げて下さい。
僕は神と愛を説くイエスの教えだけが正しい宗教だと言います。しかし、キリスト教至上主義では無く、キリスト教という概念に固執する事はカルトです。
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